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ふりだしにもどる。このんで。
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2024/04/29 (Mon) 08:01
Posted by REAL.Kawamoto
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訃報に接して、とにかく突然のことにあまりにも言葉をなくしています。

わたしにとって6代目三遊亭圓楽師匠は、物心ついたころから大好きな落語家さんでした。勿論そのころは楽太郎師匠で、笑点メンバーとして好きになったのですけれども。

探してみたら、ちょうど干支が一回り、12年前のこと、6代目三遊亭圓楽を継がれたときに残した日記が残っていました。
身内向けのSNSに載せたものなので全面的に書き直そうかと思ったのですが、あまりにも圓楽師匠へのわたしの想いを示しすぎているので、ほんの少しだけ直して、ここに上げ直してみます。

2010年3月2日の日記でした。
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嬉しさと寂しさと・・・六代目三遊亭円楽、涙の襲名披露会見
(ニュース記事URL)


おめでとうございます。
先代の円楽師匠が亡くなったときには、震えました。なんでこんなタイミングで、と。あれから半年近く経つのですね。





わたしにとっての楽太郎師匠は、物心ついたときから笑点で一番大好きな師匠でした。
それがより一層、尊敬に変わったのが、伊集院光が自著エッセイ「のはなし」で書いた、とあるエピソードです。


これは読んだときも痺れて、日記で触れたことがあるんですが、そのときの日記があまりにも痛くて読み返せないので再度引用することにします。



「憧れと目標は違う。憧れは噺家になったばかりの時の漠然とした方向と起爆剤だけど、しばらくやって自分の能力を冷静に分析できたら今度は期限を区切って到達可能なところに設定するのが目標だ。更にそれをクリアしていくうちに到達するところが、憧れと目標の間にあってより高みにあれば素晴らしいじゃないか」

「入門したのは『名人』に憧れたからだが、しばらくやれば時代も才能も運もキャラクターもすべてが違うことに気づく。で、何とか努力すれば50歳までに『名人』とはならなくとも『上手』にはなれるかもしれないと思って稽古した。で、今度は60歳までに『達人』になれないかっていうのが今の俺の目指すところだ」



わたし、これに泣きました。すげえ悩んでた時期にぶつかった言葉だっていうのもあるけれど。
上に引用した記事で、自分には円楽の名前を大きくすることは出来ないけれど守るっていう言葉に、ああなんて、とまた言葉がなかった。
本当に、本当に、師匠は。





無茶苦茶個人的なことを語ります。
昔、先代の円楽師匠がテレビが壊れたと大騒ぎしたのを、抜けてたコンセントのせいと見てとるやさっと差し込んで「直りました」「さすが楽太郎だ!」とやった当時の楽太郎師匠を、わたしは、調子の悪い部長のパソコンをちょっと見て何にもしてないのに「良くなった、さすが新見だ」と勘違いされる、直属の先輩に、ちょっと重ねています。

伊集院光の新しいエッセイ「のはなしに」で、伊集院光に芸人を辞めることを伝えにきた売れないお笑い芸人を前にして、伊集院光が落語家を廃業すると当時の楽太郎師匠に伝えたときを回想したエピソードが描かれています。

何だろう、多分、わたしは、こうやって送られたいかもしれない。

無茶苦茶場違いな想いで、絶対叶わないと知っていて、単なる我が儘で、だけどわたし、やっぱり、この方のことを、たまらなく憧れてるなあ、と、思い入ったのでした。





ああ、落語聞きに行きたいな。
行こう。
触れよう。
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さて、実際にはわたしは、このあと更に6年の時を経てやっと、圓楽師匠の落語を聞きに行きます。
それは、歌丸師匠が笑点の司会を引退されて、高座に専念すると宣言されたあと。
歌丸師匠と圓楽師匠との二人会が、わたしが初めて生で聞く、圓楽師匠の落語になりました。

この二人会のときの感想を、なぜわたしはTwitterにすら書かなかったのか。残さなかったのか。
自分のためにとにかくとにかく悔やまれます。
二人の落語の違いが、すごく面白かった。歌丸師匠の静かさの中そこに滲む味わい、圓楽師匠は知的さのなかにどこか艶があって。

当時、歌丸師匠の自伝的本を読んでいて、歌丸師匠がライフワークとされていた落語のジャンル、代表的な噺を、このときたまたま(というか、恐らく歌丸師匠は残りの人生をきちんとこのライフワークを全うされていたから、思い立って見に行ったレベルのわたしでも触れられたのしょう)掛けてくださっていて、なんだけど、少しそれが直球ど真ん中、ではなく、少し変わってたという記憶があるのですが、それは圓楽師匠が掛けた噺との関係性だったんだろうな、圓楽師匠がこれを掛けたから、歌丸師匠はこれを掛けたのかな、とも感じた、という記憶で、つまりわたしは、このお二人の関係性も本当に本当にものすごく好きだったのです。

先代の、5代目の圓楽師匠は、あるときの高座で自分の芸に納得がいかず、すっぱりと高座にあがることを止められてしまいました。
それを見ていたから、それを引き取るように、あるいは意地ともとれるように、歌丸師匠も、6代目の圓楽師匠も、最後の最後の最後まで、拘り続けるように高座にあがり続けた。

そんなことはお二人とも全くなにも仰っていない、と思う…のですが、落語に疎かった、でもこの三人の関係性にこよなく痺れきっていたわたしには、そう見えていました。

そんな三人が、まさかこんなに早くあの世で揃ってしまうなんて。
あの世で笑点出来るじゃん、そのときは5代目圓楽師匠が司会席で、歌丸師匠と6代目圓楽師匠は隣の席で、あの頃みたいに掛け合ってください。
たぶんね、歌丸師匠は言うね。あんたが早すぎるよ、何やってんだ、ってね。

6代目圓楽師匠が亡くなってしまった今年、わたしは8年ぶりに、分かれていた当時の直属の先輩、の、部下に戻りました。
なんという巡り合わせでしょうか。


6代目圓楽師匠のご冥福を静かにお祈りいたします。

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2022/01/05 (Wed) 22:32
Posted by REAL.Kawamoto
楠本柊生帝國元帥 第14帝國「会いに行ける元帥」に参加して来ました。

昔もこうやって、歩いてダイアモンドホールに向かっていた気がする。運動不足解消と、途中で花屋に寄りたくて、名古屋駅から向かう道すがら、それでもわたしはまだ実感がわいていなかった。

献花は白い花にしたいと、決めていた。出来れば大きな百合の花。
でも残念ながら、何度かからぶって辿り着いた花屋には百合がなかった。用意しておかないからだよ、って自分に呟いて、白の小さな花束を買った。

思ったよりもだいぶギリギリめに着いて、整理券の番号が意味をなさないのもわたしらしかった。階段で5階までにも怯まず向かって、階段に貼られていたチラシがお魚になった元帥なので心臓がばくばくした。

整理券順に呼ばれる待合ホールにはたくさんの臣民さんが集まっていて、呼ばれている番号はもうわたしの番号の7倍辺りだった。列に並ぶ。

結局いつでもどの現場でも基本的にはぼっち参戦なので、今日この日を現場で迎えることは遠く海の向こうで船に乗ってる幼なじみとしか話していない。でもきっと、この現場にいる皆は、いつかどこかで出会っている。そうしてここに来たのだ。

ロビーには物販と献花のコーナー、チラシがご自由にお取りくださいと積まれているのは宝塚かよ、と思ったし、公演の写真や小道具の展示はやっぱり殿堂かよ、と思った。
でも献花の列に並んで、向こうにいる元帥の形代の姿を見ると、会いに来たんだなあと思った。静かにただ白い花を供える。

この元帥の言葉、覚えてる。と思った展示で既にじわっときていたけれど、とりあえず出遅れたぶん、席を探さねばならぬ。幸いぼっち参戦のお陰でそこそこいい席に座ることができた。オペラグラスを忘れた、と思ったけど、そもそも帝國でオペラグラスを使ってなかったぞと思い直し、開演時間まであと少しの時間をぼんやりと過ごした。

影アナウンスは普通に始まり、それが終わるとあの幕前の曲が流れ、既にロビーで流れてる懐かしい曲たちで涙腺は刺激されてたけど、始まってしまう、と息を飲んだ。
そして、カルミナブラーナがかかり、幕は上がった。

読み上げの年表の初っぱなから、ああもう定光寺中将限界じゃんっていう涙声で。隣の立花大将が落ち着いた声で読み上げるのが、また。
そして、キリエが流れた。

勿論、そこにある筈の楠本柊生帝國元帥の姿が現れよう筈はない。
けれど、声が聞こえた。
これが精神世界に冠たる、第14帝國だ!
嗚呼、そうだろう、そうするだろうと思っていた。いくらでもサンプリング出来たろう、ここの元帥の声は。
わかってはいた、わかってはいたけれど、もう悲鳴のような涙が溢れて号泣していた。
完璧なスリートップのオンブラッタ。わたしはこのときの春木大佐がものすごく好きだった、と、思い出した。
オーライは、わたしの好きだった人のではなかったけれど、でも、オーライだった。

そして。柊生元帥は、そこにいる。そこにいた。

物質世界の臣民諸君よ。物質世界に縛られた哀れな臣民諸君よ。
そう、そこにいる臣民はその中心に現れる元帥を確かに見た。それぞれの思う姿の元帥を。

それは幻創論の体現だった。そうなることは知っていた。知っていたけれど、どうしようもなく奇跡のような瞬間だった。

わたしは、あの瞬間を忘れないだろう。
忘れないためにここに記した。



30年続いた戦争が終わり、いなくなった元帥を探すという式典のお話は一瞬でコメディパートに入り、すぐにオールナイト14が始まった。
オールナイト14の冒頭で、元帥が死んじゃいましたね、って中将が初っぱなで話してしまって、でもそれは元帥との約束だったらしい。お亡くなりになった、な、と大将がまぜっかえしながらも、中将はずっと涙声で一生懸命進行してた。
元帥と約束したこと。元帥が見たいと言っていたスリートップのオンブラッタが実現したこと。
そして、元帥と、新しいかたちの式典をと考えていたのが本当はこの式典で、それは過去の式典を皆で見ようっていうものだったんだって。

軍服の一番暑い夏。と、聞いて、思い出すべきだったんだけど。
それはわたしがちょうど第14帝國を知り、どはまりした、絶賛受験生だったあの夏だった。

まさかそれをここで見ることになるなんて、って、勝手に自分でその勝手な符号にぐっと来てしまった。
あのニューフレーバーは、たぶんこのダイアモンドホールで、そしてあのニューフレーバーは、わたしも参加してた。
でも、赤坂BLITZには、受験生だからそんな無理な遠征できない…って諦めて、だから軍服の一番暑い夏はビデオを買ったよ。あの冒頭、めちゃめちゃ覚えてたよ。風間少佐の裁判からの20年越しの謝罪、ファンクラブの会費まで調べてるじゃんって笑った。
成り上がりXはめちゃめちゃ令和の成り上がりXでめちゃめちゃ傑作だったし、尉官ズのえのきも令和バージョンになっててどちらもほんと笑った。
笑って、笑ったけど、いやこれ往年の帝國思い出すけど絶対押してるよね時間って思ったら、やっぱり押してて、そんなとこも笑っちゃった。

そして本編に戻って、風間少佐が元帥の形代になって、冒頭のオンブラッタで起きた奇跡を丁寧に解説してくださって、元帥は確かにこれからもいるのだ、と、でもそれは祈りのようで願いのようでもあった、と思う。
元帥の遺影に、リッターが一人ずつ、白い大きな百合を供えていく。ああ、やっぱり、白い百合だよね。そう思った。

そうして、元帥の演説が流れ、全てのプログラムは終了して、とりあえずさよならだ。
ニュルンベルクのマイスタージンガー。
カルミナブラーナも、マイスタージンガーも、わたしが好きなのは、第14帝國があったからだ。
(マイスタージンガーはブギーポップもあるだろっていう自分だけの突っ込みも置いときながら)

カーテンコール、定光寺中将が読み上げた言葉は、本当に本当に、あたたかくて皆が同じ気持ちでした。
泣いて泣いて泣いて、でも気持ちはあたたかだった。
どれだけ拍手がなりやまなくても、2回目の緞帳は上がらない。規制退場を待ちながら、ほうっとしていました。

言葉にならないだろうと思っていたけれど、でも、言葉になるもんだな。
というか、わたしはずっと語りたくて語りたくて、語れなかった残さなかったことも後悔しながらやってきたので、これは語らないと、残さないといけない、と、思ったのでした。

退場時にいただいた元帥が開発した天むす。お手拭きを立花大将が、天むすを風間少佐が、そして定光寺中将が絶えず声をかけてくださいました。
天むす、どうにも食べあぐねていたけれど、食べたらめちゃめちゃ美味しくて一瞬で食べてしまった。おやつ用に開発された天むす。毎回式典で売って欲しかった。めちゃめちゃ美味しいじゃんもう、って思ったら、元帥が「だろ?」って笑った。得意そうにあの声で。

これからYouTubeにあげてくださる式典を、わたしがいつどれだけ見られるかはわからない。わからないけれど、でも元帥は旅立ちながらすぐ隣にいるのだ。
いつでも、どこででも、会いに行ける。
また会いに来ますね。元帥。

そして今日は本当に本当に、ありがとうございました。

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 有川浩さんの新作、ストーリー・セラーが8月20日発売になります。 
 この装丁の、慎ましくも美しいこと…!
 それだけでも楽しみで仕方ないのですが、このお話は既に名作だとわかっていますので、更に楽しみで仕方がないのです。


 
 表題の「ストーリー・セラー」はこちらのアンソロジー「Story Seller」の掲載作です。元々、このアンソロジーのタイトルを気に入った有川さんが「そのタイトルで一本書いていいですか」とインスピレーションを得て書かれたもの。

 このアンソロジーそのものの豪華さと素晴らしさ、そして構成の美しさ(全部ひっくるめて美しさとしか言えない自分がもどかしいのですが)もさることながら、この「ストーリー・セラー」を初めて読んだときの衝撃と感動は、本当に、とにかくこのアンソロジー企画に感謝したいほどでした。上手く言えなくてこんな物言いになってしまうのが悔しいのですが、有川さんのファンとして、本当に嬉しかったのです。このアンソロジーで、この物語が生まれたことが。
 
 この「ストーリー・セラー」は、一人の作家と、その旦那様の物語です。ネタバレを避けて感想を述べることはとてもとても難しいのですが、ラストにはただただ涙が止まらず、とても困りました。優しくて、とても哀しい、お話です。
 このお話は、ラスト、旦那様に編集者から問いかけられる言葉でこの物語の仕掛けが見えるのですが、そうするとまた、わたしたち読者が有川浩に同じ問いを抱くように出来ている、と、わたしはそう読みました。
 有川さんがこれを全く狙わずにやったとは思えず、主人公の作家をはじめとした登場人物の名前を伏せていること、その作家が女性であること、その女性が使う論理や信念が有川さんを彷彿とさせること、そして悲劇が襲った後、彼女が選ぶ方法、最後の言葉……そして、旦那様に返される問い。有川さんを知っている読者は、「有川浩がこの物語を書いた」ことまでも包含された物語である、と、感じるのではないでしょうか。
 
 単行本化される「ストーリー・セラー」には書き下ろしの作品も所収しているそうで、それも楽しみの一つなのですが、わたしはその前に、この「ストーリー・セラー」に始まった、有川浩さんの「Story Seller」掲載三部作についての、ぼんやりとした仮説というか、考えていたことを思うままに綴ってみたいと思います。

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 ああ、本当に、追いかけられたことが幸せで仕方がない。
 そして、追い続けられるということが幸せで仕方がない。

 2月14日のライヒス・リッター式典から始まり、7月10日のアーデル・リッター式典をもってついにその全式典がフィナーレを迎えた、第14帝國物語。
 最初はチケ取りに敗退しまくり、本当に悔しくて夜も眠れない日が続いたのですが、それから色々な幸いが重なり、気がつけば、6月15日のカイザー・リッターを除きほぼ全ての式典に参加していました。各日の感想はまた追々するとして、今回は一先ず、全式典を終えた感想を綴ってみたいと思います。


 さて、この「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」は、偶然にもわたしが初めて生で見た、第14帝國の式典の演目の再演(と言っていいのかわからないのですが、他に適切な言葉が見つかりませんのでとりあえずこう記します)です。記録を見ますと2001年7月、今から丁度9年前の模様。
 わたしは、この「Vol.22」としての「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」で第14帝國にどっぷりと持って行かれ、楠本柊生帝國元帥が帝國を離れたと同時に臣民を抜けたタイプの臣民です。楠本柊生帝國元帥が描いた、この、ライヒス・リッター、カイザー・リッター、アーデル・リッターだからこそ、再び第14帝國に向かおうという気になったタイプの臣民です。ですので、今の形の第14帝國も好きな方には傲慢にも不快にも映る感想となっているかもしれませんが、ご容赦頂けますと幸いです。


 この「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」が演目として選ばれたと知ったとき、わたしは静かに震えました。わたしがその告知に受けた色んな衝撃の中でも殊更鮮やかに主張していたのは、この式典のタイトルだったのは確かです。
 ねえ、だって、再演、なんだよ。
 再演なのに、なんていう符丁なんだと、震えたのです。
 『確かに』、「元帥がやってくる」。
 一瞬、タイトルを借りただけの別式典でないかと疑ったのは正直な話。インタビューを読むまでは信じていなかったかもしれない。


 初日のライヒス・リッターの冒頭、何度も書き換えられながら姿を現し続けた第14帝國の年表が記憶にある形と明らかな違いを見せたとき、わたしは、嗚呼、『本当に』歴史が書き換わった、と、鳥肌が立ちました。
 「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」はラスト、回想で、帝國で起きた一つの戦いを示しますが、この戦い、原典ではやや、歴史に合わない戦いになっていたと記憶します。元々「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」は式典が回を重ねるに従い完全に別のストーリーになってしまった式典のため、その辺りはまあしょうがないかな、と思っていたのですが、今回は新たに創られた世界の中で、一つの意味のある戦いとして描かれる。10年前。帝國1000年に起きた一つの哀しい戦いのお話。

 ……とそれっぽく書いてみたのですが、告白します。実はわたし、カイザー・リッター楽日が終わるまで、今回新しく定義された年表をきちんと解釈しておりませんでした! この仮説を明らかにしようと望んだオーラス、アーデル・リッターの冒頭では峰村大佐が年表をなくした(笑)ため、全く年表を読み上げないという……峰村大佐、貴官のせいで……!

 ただ、その再定義された歴史の中で創られた、新しいライヒス・リッターの「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」という物語は、わたしの記憶にあるままの、懐かしく愛おしい、ライヒス・リッターでした。
 細かく言うなら、多分、吾妻中佐の仮面教は原典では加納中佐がやっていたのではなかったかな。そして腹話術が吉川大佐……ごほごほ、いや、星野中佐だったような気がする。(関係ないですが、かつての星野中佐ファンにとってアーデル・リッターはどう映ったのだろうかという思いが今ちらっと過ぎりました。またライヒス・リッターで星野中佐が登場することはあるのでしょうか?)
 まあそれは限りなく些細なことで。うわあ、還って来た、帰って来た、という思いが強すぎて、そこに「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」という式典タイトルが重なり、思い切り泣いてしまいました。


 続くカイザー・リッターは、とにかく衝撃を受けました。限りなく原典に忠実でありながら、決して重ならない物語。
 こういう言い方をすると良くないのかもしれませんが、元はと言えば、ライヒス・リッターへの当て書きであった式典の筈なわけです。それなのに、それをここまで忠実になぞりながら、かつ各人の魅力を最大限に引き出した、全く別の式典が出来る。ぞくりとしました。
 だって、あの「AllRight!」もやっちゃうのよ! なるほど、居たねネイティブ! と、千秋中尉が飛び出してきて思い出した。
 決定的に違うのが大将の位置づけで、初回の千葉繁大将の存在が舞台をものすごく引き締めていたのが印象的です。そうか、教官か! 立花大将と大意は同じ台詞でありながら、その持つ意味合いと発せられた意図が違うというのが、ライヒス・リッターと決定的に歴史を分けた瞬間だったと思います、地味な部分ながら。

 ただ、ここでアーデル・リッターへも不安が残ったのが、今回の主役(と呼んでいいのかわかりませんが、わたしはこの式典の主役はこの位置のリッターだと思ってます)の上矢大佐の存在感でした。
 この式典は、最初にも上げたとおり式典内容がぐるっと変わったもので、ラストでは主役の大佐がリチャードに完全に食われてしまう構成を取っています。わたしにとっては春木大佐は春木大佐としてその背景にある色んな物・歴史を読み取れる存在なのでライヒス・リッターでは全く感じなかったのですが、『限りなく無口』という個性の上矢大佐はわたしにとって初めてのリッターであり、またその個性による押しの弱さも相俟って、完全にリチャードに食われてしまっているように見えてしまいました。
 (誤解のないようにしたいのですが、これは上矢大佐が悪いとかそういう話ではなく、物語の構成上、また、カイザー・リッターが限りなく原典に忠実に描かれながら初めての存在であった関係上、仕方がないことだったと思っています。また、この印象を持ったのは初回だけで、6月に3daysで行われた式典ではそういうことは感じませんでした。リッターを知れた、からかもしれません。)
 一方、源氏中将のリチャードは驚くほど原典に忠実でそのはまり具合にびっくりしました。げんしじんなのに……(なんだ、なのにって。)


 そして、アーデル・リッター。最初から思いっきり崩しにかかり、こちらがびっくりしていると、意外ときっちりお約束は守る。国歌と称してバンド演奏が始まったときはうお、と思いましたが(思わず、「国歌~国歌~ちゃんとしたー国歌~」と始まるのかと思った。←それはライヒスだろう)、その後のバンドアレンジのオンブラッタ、鳥肌立つほどかっこよかった、びっくりした。
 アーデル・リッターは何というか、恐ろしいほどの舞台の楽しみっぷり、まるで原典をいかにパロディ出来るか? に挑戦しているかのような印象を受けました。カイザー・リッターを見ての杞憂も何のその、主役の峰村大佐の破壊力がまたすさまじい。すさまじ過ぎて、同じ大佐である吉川大佐と引き比べてどーのこーのという理由付けが、むしろ全くいらない(笑)仮面のおかげでまともになったんならいいじゃない、と思ってしまうくらいですが、まともなのは峰村大佐じゃない! という法が、アーデル・リッターの境地を指し示しているもののような気がします。
 ただ、そうやってしっちゃかめっちゃかとお祭り騒ぎしてるように見えて、けれどこの、原典のライヒス・リッターともそれをなぞりながら違う世界を描くカイザー・リッターとも違う、各リッターの立ち位置が、恐ろしく興味を引くところでもあるのでした。
 例えば、小泉大将と柊生元帥の関係。3つの世界の大将の中で、唯一、全く違う台詞を吐いたのが小泉大将。銃を突きつけられれば迷わず命乞いをし、「撃たない、俺にはわかる」なんて言わない。民間人を切り捨てろと言いながら、それが出来ない元帥を止めるために自分が死ぬことを仄めかす。そもそも民間人を切り捨てろと言ったのは、これ以上『仲間の死』を見たくないからだという意図があからさまに見えて、その『身内の死』に対する強烈なこだわりとそこに明らかに見える弱さが、非常に興味深いものであります。
 あと、非常に細かい部分なのですが、リチャードが、素晴らしくリチャードでした。というか、原典を無視して、「リチャード」という役を見るのであれば、誰より一番はまっていたのは、天野鳶丸中将だったと思います。天野中将のリチャードは、こう言うのもおかしいですが、何より限りなくリチャードでした。
 10年前、楠本柊生と出会い、夢を共にした民間人。楠本柊生に撃たれてその命を終えることになり、そこで10年待ってろと言い残す。このディテールに、誰よりもはまったのが、天野中将だったと思います。
 柊生を元帥にしたのは自分だ、とリチャードが言って峰村大佐に取り入ろうとするシーンがありますが、これ、「柊生を元帥にしたのは自分だ」ということにリチャードが言及しているのは、アーデル・リッターでだけだと記憶しています。小さな台詞ですが、これが震えます。リチャードの立場でその台詞を言うということ、それはリチャードの、色んな感情が見えませんか。そしてそれが、天野中将の演じたリチャードだということに、何か納得させられたのです。

 

 それぞれ2回(カイザー・リッターは3回予定を2回半…)ずつ見させて頂きましたが、2回目は何というか、ライヒス・リッターもカイザー・リッターもアーデル・リッターも、1回目と同じことなんかしてやるもんか! というような心意気を感じました(笑)見れば見るほど面白くて、素晴らしかったです。

 カイザー・リッターの楽日、柊生元帥が、ライヒス、カイザー、アーデルそれぞれの違いを示すために解りやすい方法として、同じ演目の式典をやってみた、と、仰っていました。

 そして、ここから先は、パラレルで三又の道。

 この式典を土台の歴史として、それぞれが違う歴史を刻んでいく。いずれ、各世界の年表は違う年表となるのでしょう。それは――なんて、なんて広い帝國になるということなのか。

 ライヒス・リッターの次の式典は、完全新作。
 カイザー・リッターの次の式典は、「元帥の中日×巨人戦」。これは原典がライヒス・リッターVol.23で、「元帥がやってくるYar!Yar!Yar!」がVol.22だったことを考えると、また限りなく忠実すぎてにやりとする。
 アーデル・リッターの次の式典は、「仁義なき元帥」。これも原典がある様子ですが、わたしはピンとこなかったので、解りません。でもこれがライヒス・リッター・ステージ~あの衝撃をもう一度~なら、すごすぎると思う。アーデルでこれを描くのか! と思うと思う。

 全ては皇帝陛下の夢である第14帝國で、3つのリッターが生まれたこと。そして、それぞれが紡ぎ続けるということ。
 どうか、どうかこの夢が、可能な限り続きますように。

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漢方保険継続正式決定通知について
http://kampo.umin.jp/

12月25日付けで、漢方薬の健康保険継続について民主党厚生労働担当副幹事長の青木愛衆議院議員より、社団法人日本東洋医学会及び日本漢方生薬協会宛に正式通知があったとのことです。
内容としては、平成22年度についても引き続き漢方薬について保険適用とすることを約束したものになります。

署名自体は12月12日までの期間で通算924,808名分もの量になったそうで、それだけ、漢方薬がなくてはならないものと思う人たちが実際に動いたということだと思います。
わたしが記事にしたことで何かが変わったわけでもないと思うので、わたしが言うのもおかしな話ではありますが、署名という行動に出てくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいです。どうもありがとうございました。


えっと、前の記事では、もともと保険適用除外が規定路線だというのが誤報という説もあるという話を書きましたが、誤解を招いてしまったかもしれないので、今さらではありますが、わたしのスタンスを少し述べたいと思います。
事業仕分けが行われた時点で、漢方薬の保険適用を除外することが規定路線ではなかった、というのは、前の記事で挙げた記事の書くとおり、事実だと思います。しかし、実際に見直しの対象に挙がっていたのはこれまた確かな事実で、そこで誰かが声をあげなければ、声をあげなかったことを良いことに、しれっと削られる可能性もあった、というのは、これまた確かな事実だと思っています。

薬局で売られているような漢方薬、と言うのは少々乱暴なくくり方で、厳密には薬局で売られている一般漢方薬と病院で処方される漢方薬とでは生薬の含有量が違ったりするそうなのですが、それをその「少々乱暴なくくり方」に則って保険適用外としてしまうならば、混合診療が許されない保険制度からみて、病院・診療所という医療現場から漢方薬は消えてしまう可能性が高い。
そして、今やそれが明らかなデメリットになるという患者さんが大勢いる(わたしも含めて。)、ということは、やはり、声をあげなくてはいけない理由になりうると思うのです。

一方では、そもそも漢方薬に健康保険が使える、病院・診療所で漢方薬を処方するということを大層に扱うことがおかしい、従来漢方薬は漢方薬専門薬局や漢方診療専門病院で自費(保険外)を念頭に出されて来たものが主流なのだから、という話もあるようですが、それは確かにごもっともなのかもしれません(わたしはそれにお世話になっていないので、よく解らないので申し訳ないのですが)。
ただ、だからと言って、必要だと声をあげた人たちの声を押しつぶす必要はないと思うのです。(正しい情報提供は必要でしょう。自分が自費で処方されていたという認識のない方が、漢方薬が根絶される恐れがあるという勘違いのもと署名する可能性もあるのでしょうから。)

わたしは、声をあげなければどんな野蛮な論理を使って、押しつぶされてしまうものがあるかもしれない、と、今回の件で強く思いました。
その恐れから、行動しようと思ったのです。
安心しきって、声をあげないでいて、それでも事態は好転するかもしれませんが、いきなり事態が悪くなってしまったら、もう遅いし、そのときの絶望と悔しさははかりしれないと思うのです。
そしてその行動が、何かに踊らされているように見えても、犯罪だったり、人の迷惑になるようなことだったり、はたまた誰かに負担を強いることであったり、しなければ、声をあげよう、と思うのです。声をあげるべきだと思うのです。


ともあれ、そうして声をあげた方が多くいたということは、本当にありがたいことだと思います。
平成22年度と言わず、その先も、この国の医療がより良い方向を向くことを願って止みません。

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というわけで、この記事を境にして、こちらのブログに重心を移していこうと思います。
慣れない中ですが、よろしくお願いいたします。

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