ふりだしにもどる。このんで。
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訃報に接して、とにかく突然のことにあまりにも言葉をなくしています。
わたしにとって6代目三遊亭圓楽師匠は、物心ついたころから大好きな落語家さんでした。勿論そのころは楽太郎師匠で、笑点メンバーとして好きになったのですけれども。
探してみたら、ちょうど干支が一回り、12年前のこと、6代目三遊亭圓楽を継がれたときに残した日記が残っていました。
身内向けのSNSに載せたものなので全面的に書き直そうかと思ったのですが、あまりにも圓楽師匠へのわたしの想いを示しすぎているので、ほんの少しだけ直して、ここに上げ直してみます。
2010年3月2日の日記でした。
--------------------------
嬉しさと寂しさと・・・六代目三遊亭円楽、涙の襲名披露会見
(ニュース記事URL)
おめでとうございます。
先代の円楽師匠が亡くなったときには、震えました。なんでこんなタイミングで、と。あれから半年近く経つのですね。
わたしにとっての楽太郎師匠は、物心ついたときから笑点で一番大好きな師匠でした。
それがより一層、尊敬に変わったのが、伊集院光が自著エッセイ「のはなし」で書いた、とあるエピソードです。
これは読んだときも痺れて、日記で触れたことがあるんですが、そのときの日記があまりにも痛くて読み返せないので再度引用することにします。
「憧れと目標は違う。憧れは噺家になったばかりの時の漠然とした方向と起爆剤だけど、しばらくやって自分の能力を冷静に分析できたら今度は期限を区切って到達可能なところに設定するのが目標だ。更にそれをクリアしていくうちに到達するところが、憧れと目標の間にあってより高みにあれば素晴らしいじゃないか」
「入門したのは『名人』に憧れたからだが、しばらくやれば時代も才能も運もキャラクターもすべてが違うことに気づく。で、何とか努力すれば50歳までに『名人』とはならなくとも『上手』にはなれるかもしれないと思って稽古した。で、今度は60歳までに『達人』になれないかっていうのが今の俺の目指すところだ」
わたし、これに泣きました。すげえ悩んでた時期にぶつかった言葉だっていうのもあるけれど。
上に引用した記事で、自分には円楽の名前を大きくすることは出来ないけれど守るっていう言葉に、ああなんて、とまた言葉がなかった。
本当に、本当に、師匠は。
無茶苦茶個人的なことを語ります。
昔、先代の円楽師匠がテレビが壊れたと大騒ぎしたのを、抜けてたコンセントのせいと見てとるやさっと差し込んで「直りました」「さすが楽太郎だ!」とやった当時の楽太郎師匠を、わたしは、調子の悪い部長のパソコンをちょっと見て何にもしてないのに「良くなった、さすが新見だ」と勘違いされる、直属の先輩に、ちょっと重ねています。
伊集院光の新しいエッセイ「のはなしに」で、伊集院光に芸人を辞めることを伝えにきた売れないお笑い芸人を前にして、伊集院光が落語家を廃業すると当時の楽太郎師匠に伝えたときを回想したエピソードが描かれています。
何だろう、多分、わたしは、こうやって送られたいかもしれない。
無茶苦茶場違いな想いで、絶対叶わないと知っていて、単なる我が儘で、だけどわたし、やっぱり、この方のことを、たまらなく憧れてるなあ、と、思い入ったのでした。
ああ、落語聞きに行きたいな。
行こう。
触れよう。
--------------------------
さて、実際にはわたしは、このあと更に6年の時を経てやっと、圓楽師匠の落語を聞きに行きます。
それは、歌丸師匠が笑点の司会を引退されて、高座に専念すると宣言されたあと。
歌丸師匠と圓楽師匠との二人会が、わたしが初めて生で聞く、圓楽師匠の落語になりました。
この二人会のときの感想を、なぜわたしはTwitterにすら書かなかったのか。残さなかったのか。
自分のためにとにかくとにかく悔やまれます。
二人の落語の違いが、すごく面白かった。歌丸師匠の静かさの中そこに滲む味わい、圓楽師匠は知的さのなかにどこか艶があって。
当時、歌丸師匠の自伝的本を読んでいて、歌丸師匠がライフワークとされていた落語のジャンル、代表的な噺を、このときたまたま(というか、恐らく歌丸師匠は残りの人生をきちんとこのライフワークを全うされていたから、思い立って見に行ったレベルのわたしでも触れられたのしょう)掛けてくださっていて、なんだけど、少しそれが直球ど真ん中、ではなく、少し変わってたという記憶があるのですが、それは圓楽師匠が掛けた噺との関係性だったんだろうな、圓楽師匠がこれを掛けたから、歌丸師匠はこれを掛けたのかな、とも感じた、という記憶で、つまりわたしは、このお二人の関係性も本当に本当にものすごく好きだったのです。
先代の、5代目の圓楽師匠は、あるときの高座で自分の芸に納得がいかず、すっぱりと高座にあがることを止められてしまいました。
それを見ていたから、それを引き取るように、あるいは意地ともとれるように、歌丸師匠も、6代目の圓楽師匠も、最後の最後の最後まで、拘り続けるように高座にあがり続けた。
そんなことはお二人とも全くなにも仰っていない、と思う…のですが、落語に疎かった、でもこの三人の関係性にこよなく痺れきっていたわたしには、そう見えていました。
そんな三人が、まさかこんなに早くあの世で揃ってしまうなんて。
あの世で笑点出来るじゃん、そのときは5代目圓楽師匠が司会席で、歌丸師匠と6代目圓楽師匠は隣の席で、あの頃みたいに掛け合ってください。
たぶんね、歌丸師匠は言うね。あんたが早すぎるよ、何やってんだ、ってね。
6代目圓楽師匠が亡くなってしまった今年、わたしは8年ぶりに、分かれていた当時の直属の先輩、の、部下に戻りました。
なんという巡り合わせでしょうか。
6代目圓楽師匠のご冥福を静かにお祈りいたします。
わたしにとって6代目三遊亭圓楽師匠は、物心ついたころから大好きな落語家さんでした。勿論そのころは楽太郎師匠で、笑点メンバーとして好きになったのですけれども。
探してみたら、ちょうど干支が一回り、12年前のこと、6代目三遊亭圓楽を継がれたときに残した日記が残っていました。
身内向けのSNSに載せたものなので全面的に書き直そうかと思ったのですが、あまりにも圓楽師匠へのわたしの想いを示しすぎているので、ほんの少しだけ直して、ここに上げ直してみます。
2010年3月2日の日記でした。
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嬉しさと寂しさと・・・六代目三遊亭円楽、涙の襲名披露会見
(ニュース記事URL)
おめでとうございます。
先代の円楽師匠が亡くなったときには、震えました。なんでこんなタイミングで、と。あれから半年近く経つのですね。
わたしにとっての楽太郎師匠は、物心ついたときから笑点で一番大好きな師匠でした。
それがより一層、尊敬に変わったのが、伊集院光が自著エッセイ「のはなし」で書いた、とあるエピソードです。
これは読んだときも痺れて、日記で触れたことがあるんですが、そのときの日記があまりにも痛くて読み返せないので再度引用することにします。
「憧れと目標は違う。憧れは噺家になったばかりの時の漠然とした方向と起爆剤だけど、しばらくやって自分の能力を冷静に分析できたら今度は期限を区切って到達可能なところに設定するのが目標だ。更にそれをクリアしていくうちに到達するところが、憧れと目標の間にあってより高みにあれば素晴らしいじゃないか」
「入門したのは『名人』に憧れたからだが、しばらくやれば時代も才能も運もキャラクターもすべてが違うことに気づく。で、何とか努力すれば50歳までに『名人』とはならなくとも『上手』にはなれるかもしれないと思って稽古した。で、今度は60歳までに『達人』になれないかっていうのが今の俺の目指すところだ」
わたし、これに泣きました。すげえ悩んでた時期にぶつかった言葉だっていうのもあるけれど。
上に引用した記事で、自分には円楽の名前を大きくすることは出来ないけれど守るっていう言葉に、ああなんて、とまた言葉がなかった。
本当に、本当に、師匠は。
無茶苦茶個人的なことを語ります。
昔、先代の円楽師匠がテレビが壊れたと大騒ぎしたのを、抜けてたコンセントのせいと見てとるやさっと差し込んで「直りました」「さすが楽太郎だ!」とやった当時の楽太郎師匠を、わたしは、調子の悪い部長のパソコンをちょっと見て何にもしてないのに「良くなった、さすが新見だ」と勘違いされる、直属の先輩に、ちょっと重ねています。
伊集院光の新しいエッセイ「のはなしに」で、伊集院光に芸人を辞めることを伝えにきた売れないお笑い芸人を前にして、伊集院光が落語家を廃業すると当時の楽太郎師匠に伝えたときを回想したエピソードが描かれています。
何だろう、多分、わたしは、こうやって送られたいかもしれない。
無茶苦茶場違いな想いで、絶対叶わないと知っていて、単なる我が儘で、だけどわたし、やっぱり、この方のことを、たまらなく憧れてるなあ、と、思い入ったのでした。
ああ、落語聞きに行きたいな。
行こう。
触れよう。
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さて、実際にはわたしは、このあと更に6年の時を経てやっと、圓楽師匠の落語を聞きに行きます。
それは、歌丸師匠が笑点の司会を引退されて、高座に専念すると宣言されたあと。
歌丸師匠と圓楽師匠との二人会が、わたしが初めて生で聞く、圓楽師匠の落語になりました。
この二人会のときの感想を、なぜわたしはTwitterにすら書かなかったのか。残さなかったのか。
自分のためにとにかくとにかく悔やまれます。
二人の落語の違いが、すごく面白かった。歌丸師匠の静かさの中そこに滲む味わい、圓楽師匠は知的さのなかにどこか艶があって。
当時、歌丸師匠の自伝的本を読んでいて、歌丸師匠がライフワークとされていた落語のジャンル、代表的な噺を、このときたまたま(というか、恐らく歌丸師匠は残りの人生をきちんとこのライフワークを全うされていたから、思い立って見に行ったレベルのわたしでも触れられたのしょう)掛けてくださっていて、なんだけど、少しそれが直球ど真ん中、ではなく、少し変わってたという記憶があるのですが、それは圓楽師匠が掛けた噺との関係性だったんだろうな、圓楽師匠がこれを掛けたから、歌丸師匠はこれを掛けたのかな、とも感じた、という記憶で、つまりわたしは、このお二人の関係性も本当に本当にものすごく好きだったのです。
先代の、5代目の圓楽師匠は、あるときの高座で自分の芸に納得がいかず、すっぱりと高座にあがることを止められてしまいました。
それを見ていたから、それを引き取るように、あるいは意地ともとれるように、歌丸師匠も、6代目の圓楽師匠も、最後の最後の最後まで、拘り続けるように高座にあがり続けた。
そんなことはお二人とも全くなにも仰っていない、と思う…のですが、落語に疎かった、でもこの三人の関係性にこよなく痺れきっていたわたしには、そう見えていました。
そんな三人が、まさかこんなに早くあの世で揃ってしまうなんて。
あの世で笑点出来るじゃん、そのときは5代目圓楽師匠が司会席で、歌丸師匠と6代目圓楽師匠は隣の席で、あの頃みたいに掛け合ってください。
たぶんね、歌丸師匠は言うね。あんたが早すぎるよ、何やってんだ、ってね。
6代目圓楽師匠が亡くなってしまった今年、わたしは8年ぶりに、分かれていた当時の直属の先輩、の、部下に戻りました。
なんという巡り合わせでしょうか。
6代目圓楽師匠のご冥福を静かにお祈りいたします。
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